ヘルシンキ全体感想



◎:ヘルシンキ: (解説)ヘルシンキは人口約56万。隣接地域を含めると90万近くといわれる。スェーデン領時代の首都はトゥルクだったが、1809年にフィンランドはスェーデンからロシアに割譲された。ロシアはスェーデン寄りのトゥルクを嫌い、1812年にヘルシンキを首都と定めた。当時ヘルシンキは人口4万の小村にすぎなかった。それまでフィンランドは宗主国スウェーデンからみて辺境の地だったのが、ロシアから見るともっともヨーロッパに近い玄関口へと立場を変えた。その首都の建設が始まった。ロシアは自国の建築様式を強要せず、当時最先端の様式だった新古典主義をヘルシンキに持ち込んだ。言ってみれば当時のいかにもヨーロッパ的な顔をもつ都市を作りたかった。白紙に近い場所に都市計画をして建設したという意味では、20世紀のブラジリアにも比べられるような都市であった。

 都市計画の中心は、ドイツ人建築家エンゲルであった。彼はベルリンで学びペテルブルグでの経験の後に1816年にヘルシンキに招聘された。グリッド状の都市計画を立案し、大聖堂を1830〜52に完成させる。市庁舎・大学・病院など30あまり(現存は17)の建物を設計。街の風貌として新古典主義の雰囲気があるのは彼の業績による。その後、ナショナル・ロマンティシズム時代の民族ヴァナキュラーなイメージの建物、サーリネンのナショナリズムを抜けた建物(ヘルシンキ駅)、アアルトなどによる近代建築がある。ナショナル・ロマンティシズムの代表例は国立博物館である。またエリエル・サーリネンは1915のヘルシンキ都市計画に加わったり、中央駅周辺活性化や大郊外住宅地設計も行ったので、都市計画の立役者であった。

 その一方19c末から20cにかけて、建築家の下で監督などをしていた建設工匠達が、比較的安価な煉瓦造中層住宅を自分たちでプロモートして売り始めた。様式を換骨奪胎して大衆的にしたそのデザインは、目を楽しませ、その大量さゆえに確実にヘルシンキの風貌の一部となっていった。ちなみに、『地球の歩き方』にはスェーデン統治時代の名残もあると書いてあったが、実際には殆どない。


(コメント)空港バスの車窓は雪景色が綺麗だった。市街に入った時、しかし、やや平板な印象を受けた。19世紀に作られた都市だけあって、例えば同じ北欧でも歴史のあるストックホルムと比べると、都市の「歴史のひだ」のようなものがあまり感じられなかった。何も建物が古いかどうかだけではない。店の看板が古いとかボロいとか、建物や街路樹がくたびれているとか、樹木の植え方・塀の回し方に何か過去の事情が感じられるとか、建て込み方や建物と地面の接し方、などなど、些細な事の1つ1つの積み重ねでもって、古い都市は確実に私達にその古さの「ひだ」を示してくれるように思う。

 その点、ヘルシンキは平板ではないか、というのがバスで入った最初の印象だった。何というか建物と建物の間がすいて見えた。ローマでも建物と地面、他の建物の間がすいていることは幾らでもあったけれど、その代わり500年だか1000年だか経っていそうな訳の分からない石柱(の朽ち果てたもの)がポコっとあったり、建物をよく観察するとやけに古かったりする。そういう「風貌」がない。ただ、商業建築(商業地区)というのはその点、古びるのも更新されるのも非常に早く、ヘルシンキでも古そうないでたちのものが観察された。

 街を歩き始めると、しかし、別の魅力を発見した。まず現代の建物にも、少し古い1900年初期の建物にも独特さがある。現代のものから述べると、外壁がマットで(くすんでいて)色がダークであることが多い。窓の処理もアールトの電気会社本社ビルやラウタタロのように何か傾向を持っていることが多い。これを日本に持ってくるとちょっと気分的に落ち込んで施主に人気がないかもしれないが、北国の風土にこの暗い落着き感は合っているように思えた。例えばソコス・デパート。

 モダニズム建築は量としては少なかったけど、雪の中で端正に引き締まって見えた。コルビュジェがモダニズム建築のレーゾンデートルをどんなに言い立てようと、ここヘルシンキにおけるモダニズム建築には別の存在理由があるように思えた。雪である。寒さである。これは行ってみないと実感できないであろう。風土とモダニズムの「引き締まり感」がすごく呼応して、雪の中の建築はこうでなくっちゃ、と思うくらいハマっている。空港から市街に入る時2〜3のモダニズム建築を見たが引き締まっていた。後にフィンランディア・タロやリンデグレンのオリンピック競技場を見た時にも、端正さが光った。

 しかし、何といっても私が一番気を引かれたのは1900年前後(ヘルシンキの人がユーゲント時代と呼ぶ時代)に建てられたであろうアパートやオフィスビルの意匠である( カタヤノッカ地区の建築工匠の住宅群を参照されたい)。古典様式をもじって取り込んだものもあれば、オーストリアのユーゲントシュティールを連想させるものもあれば、アールヌーヴォーっぽいデザインもある。独創も当然あるだろう。とにかく基本的に「もじり」だろうと思うのだ。勿論、街にはもっと様式にしっかり準拠したようなビルもある。しかしこの「もじり」っぽいビルが、何もカタヤノッカ地区だけではないくて、そこらじゅうで見られる。

 ヘルシンキというと元老院広場と大聖堂の新古典様式が有名だが、新古典主義はあの辺りだけに多くて、あとは、この手の「もじり」「折衷」ビルが多い。伊藤大介は『アールトとフィンランド』の中でこれを日本の疑洋風建築になぞらえていたけれど、工科系の高校を出た工匠達の勝手な工夫なのである。どうしてこんなデザインが堂々と作られたのだろうか。いや、批判しているのではない。しかしアカデミックな建築家・建築界なら絶対にこんな「折衷」をやらない筈だ。当時すでにアカデミックな建築家の社会がヘルシンキにも形成されていた筈だ。明治初頭に名も無い棟梁が時代の息吹を感じつつも資料が無い中で洋風小学校を作った、というのとはだいぶん様子が違う。

 では何が原動力だったのか? 旅行から帰って色々整理をしつつそれを考えたのだが、結局「売らんかな」のエネルギーだったのではないか。彼らは建築家とは別に自分たちで事業のプロモートをやっていた。売れるように、出来るだけ魅力的に見える建物を造ろうとした。当時の住宅の購入者がどんな趣味の持ち主だったか知るよしもないが、楽しいデザインは気に入られたであろう。

 言ってみれば今の日本のデザインマンションに似ている。しかしデザインマンションは例えば谷内田章夫とか、いちおう建築家が作っている。ヘルシンキの建築工匠にあたるのはむしろ工務店だろうか。う〜ん、事情が違いすぎる。建築工匠達は一応アカデミックな教育を受けていたし、ふだんはもっと学歴のある建築家の下で働いていた。受けたデザイン教育の質という意味で、今の日本の大工や有象無象の「一級建築士」とヘルシンキの建築工匠はかなり違っていただろう。色々な面で違いが指摘できると思う。

 最後に一言いうと、歴史も浅い人口50万ちょっと(昔はもっと少なかった)の都市であるヘルシンキが、どうしてこれだけの建築財産持っているの?、という疑問が湧いてきた。東京は約1000万、神戸は150万くらいであの程度だ。金沢が43万人くらいで近いが、お城周辺以外はテキトーなビルが建ってしまっていて、市街地の建築的厚みみたいなものは、どう見ても負けている。そうやって考えると、日本では、大戦の被害もあるけど基本的に60〜70年代の経済成長時代の建物の建ち方がやたら悪かったように思う。その後もしょ〜もないビルしかない。

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(蛇足!)

 いま私はむなしさを感じている。日本の街中にはユーゲント期の建築工匠のようなバイタリティあふれるデザインが殆どないのだ。感性ある建築家の数は限られていて、街全体を彩るまでにはとても至らない。1ついま思ったことを書くと、建築家・建築界があまりにもアカデミックにパラダイム的なもの(?)を振り回すと、そういう意匠的な「思想」に付いて行けない一般の大工・*級建築士は萎縮してしまうのではないか。例えば教育を受けた建築家とか建築界というのは、どうしても「折衷」を忌諱する(という事情がある)。誰かが、「建築デザインを勉強しました」というところを作品で見せようとしたら、「折衷」は絶対にやってはいけない。「折衷」をやろうものなら、袋だたきに遭うか、あるいは完全無視されるかどちらかだ。

 日本ではもっとデザインできる人の層を厚くする必要があって、その為にはデザイン教育が当然もっと充実すべきだけれども、それだけではないと思う。例えば今述べた「折衷」に対する許容度という問題がある。ものすごく「建築思想的に」明解で立場表明できるものだけが、一般のユーザのデザイン満足度を高めるわけではない。むしろそれは別問題だと思った方がいい。建築思想的には何が何なのか分からなくても、楽しいからユーザ(住み手)を楽しませるデザインというのはあるのだ。日本の建築界は「建築思想的」に衒学で、その教え子はスノッブなだけ。今述べたような部分は何も考えてこなかった。そりゃまあ在野・有象無象は自然放置でいいと思ってきたのかもしれないけれども、本当にそれでいいのか。建築界の衒学・スノビズムは在野のデザインを殺してきたのではないのか。

 確かに、日本には建築工匠にあたる立場や地位が無いし、19c末〜20c初頭にかけての時代の雰囲気の中でこそカタヤノッカは生まれたわけである。建築工匠達はヨーロッパ的な建築伝統もトレンドもよく知っていた。カタヤノッカという現象をただちに日本にひき直すには無理がありすぎるだろう。しかしどこが比較可能で、どこは比較できないのか、詳細に考えるというのは無駄な努力ではなかろう。カタヤノッカを通して今の日本の建築デザイン(の生産され方)を見ると、やけに「すくみ」を感じるのだ。果ては世界レベルの建築家・建築評論家から工務店のおにいちゃんに至るまで、みんなして、楽しいデザインがもっと一般に行き渡るのを阻止している(かの如くである)。戦前の看板建築のバイタリティはどこにもない。